第6章 サルのモラル、人間のモラル
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正しさをつかさどる法則や条件は、宇宙のたゆみないプロセスと関わっている。自意識でもがき苦しみ、疑惑や誘惑や挫折にとらわれ、それでも野望や成功を胸に抱く人間も、自然を作り上げたのと同じ力によって持ち上げられ、支えられている。それを知ったとき、精神生活が確実で充分な保証を得られるのだと思う。 (ジョン・デューイ) 思いやりの条件
人間以外の動物が道徳的な行動を見せたからといって、彼らが私達と同じくらい熟慮を重ねていることにはならない
容認される行動と、抑制されるべき行動について明確な総意ができている動物もあるが、いかんせん言語がないために、彼らはその背後にある基本方針を議論することはおろか、概念化もできない
しかし、人間はみんながみんな哲学者だろうか
私達は自分で思っているほど、いつも合理的ではないのではないか
私達が知的な生き物であることは疑いようもないが、同時に思考や行動にバイアスをかける強力な傾向や感情を持って生まれたことも事実
チンパンジーは攻撃を受けた者を優しくなでたり、たたいたりするし、腹を空かせた仲間と食べ物を分け合ったりする 人間も泣いている子どもを抱き上げたり、恵まれない人に食事を出すボランティアをしたりする 両者の行動を区別することは難しい
チンパンジーの行動は本能に基づいたもので、人間の方は道徳的な配慮という分類は誤解を招くものだし、おそらく間違っている
だいたい人間とチンパンジーという非常に近い生き物が同じような行動をしているのだから、わざわざ異なる説明をつけるのは不経済な話だ
それにチンパンジー本能説は、感情移入など徐々に解明されつつある彼らの複雑な精神活動を無視している 人間以外の動物を「道徳的な生き物」と呼ぶのはためらわれるが、人間の道徳性の底に流れる感情や認知能力の多くは、人類が地球上に登場する前から存在していたのである 動物に道徳性があるかどうか
この問題は、彼らに文化、政治、言語があるかという問題と少し似ている 人間が高度に発達させた特徴をものさしにするならば、そんなものはないという結論になる しかし人間の能力をもっと細かく分けてみれば、動物にも見出すことができる
文化
あるチンパンジー集団では、おとなは全員石で木の実を割るのに、別の手段では誰もそんな技術を持っていない
集団内で学習して身につけた能力が伝統として世代間に受け継がれたために、そういう違いが生じたのではないかと考えられている 言語
手話の単語やコンピュータによる記号を類人猿に教える試みが何十年も前から行われている ココ、カンジ、ウォシューなどの類人猿が学習の成果をあげて、自分の欲求や要求をうまく伝えられるようになった 政治
現状打破のための連合形成や、リーダーと支援者間のギブ・アンド・テイクの取り決めなど、人間の政治システムを構成する基本的な特徴は、他の動物にも見ることができる そのため順位争いは、食物のとりあいなどの喧嘩と同じくらい頻繁に起こる
以上3つの領域では人間以外の霊長類も驚くほど高度な知性を発揮している
ただ私達がやるように、各種の情報を統合していないだけ
言語訓練を受けた類人猿が発する言葉には、文法の規則性はまったくと言っていいほど見られないし、ある世代から次の世代に知識を受け継ぐときも、積極的な指導が行われるわけでもない
サルや類人猿が社会的地位を目指して行動する場合、計画性や見通しがあるのかどうかも議論が分かれている
こうした限界があるとしても、人間と類人猿の行動はぴったり重なるものではなく、あくまで基本的な共通点を指摘するものと認識してさえいれば、「霊長類の文化」「類人猿の言語」「チンパンジーの政治」という呼び方をしてもいいのではないか
そうすれば、人間と動物はどの程度共通点を持っているのかという議論を推し進めるのに役立つ
違いにばかり目を向けている(進化論的な視点をそらそうとするときの常套手段)と、共通点の重要さを見落としてしまう
共通する特徴は同じ祖先に由来する可能性は高い
この共通の基盤を見くびるのは、塔の最上階に立って残りの部分は塔ではない、つまり「塔」という尊い概念は頂上部分にのみ当てはまるというようなもの
意味論は学問的な論争には有用かもしれないが、たいていの場合は時間の浪費である 動物は道徳的なのか?
ここでは道徳性という塔は多層構造になっていると述べるにとどめておこう
人間の道徳性を語るうえで欠かせない傾向や能力で、ほかの動物にも見られるもの
負傷した者、障害を持つ者に対応し、特別扱いをする学習調整能力
社会規則
規則の内面化と懲罰の予測
互酬性の規則を破った者への道徳的観点からの攻撃
良好な関係作り
交渉による衝突利害の調整
これらのうちとくに感情移入、規則の内面化、正義感、コミュニティへの関心は、人間が他の動物を引き離して発達させたもの
浮かぶ道徳ピラミッド
まず自分自身に気を配らないで、他者を気遣うのは難しい
利他行動はまず自分への義務を果たすことからはじまるのだ 利他行動の圧倒的大部分は親族が対象となっている
慈悲心の強さは人と人の距離に反比例するものであり、この自然な流れに逆らおうとすると強烈な非難を浴びることになる
利他行動はできる範囲が限られている
一番身近な人々の健康と生存が確保されている場合にのみ、道徳性の輪は大きく広がっていくことができる
だから私はむしろ、道徳性は輪というより水に浮かぶピラミッドのようなものだと考える
ピラミッドを浮かせる役目を果たすのは、手に入る資源であり、水面から出ている部分が道徳性を発揮できる範囲ということになる
生存が危ぶまれる状況をなんとか脱すると、人間は血縁者に気を配るようになり、グループの内外にいる者とのネットワークを作り始める
他の霊長類と比べると、人間は実に多くを与える生き物だ
ただし道徳性の対象に入る者が、全員同じ価値で扱われるわけではない
原則としては平等なのだが、血縁やコミュニティから離れるほど、親切さや協力の度合いは弱くなっていく
普遍的な兄弟愛という発想は、自分にとって最も身近な義務の輪と一番遠い輪とを区別していない現実離れした理想にすぎない
アメリカの人類学者ガレット・ハーディンは無差別の親切さを「いきあたりばったりの利他行動」と軽蔑的に表現している 敵の勢力に対して力を合わせて対抗することが利他行動のそもそもの出発点だとすれば、近い者と手を組み、遠い者と対立するのは不可欠な要素なのだ
道徳ピラミッドの大きさは、その社会がどこまで面倒を見られるかで変わってくる
人類全体を包み込む巨大なものになることも理論的には可能だが、もともとの形はつねに不変
更に大きくなれば生きとし生けるものすべてが含まれるかもしれない
ほかに選択肢がなかった時代ならともかく、動物の感受性や認知能力について知られるようになったいま、動物に対する従来の姿勢は改める必要がある
私自身は動物たちと接しながら研究しているので、こうした変化を歓迎している
人間には他の動物を好き勝手にできる権利があるなどという立場を私はとらない
他の動物にも知性があり、道徳性の萌芽も見られる以上、動物は苦しみを感じない機械のようなもので、同情を寄せるに値しないというデカルト的な視点を採用することはできないはずだ
しかし同時に、こうした問題を「権利」という言葉で扱おうとする試みにも私は違和感を覚える
結びつきよりも自律を重視する傾向が、人間の道徳性が持つ灰色の領域を正当に扱おうとしない冷ややかで独断的な論法をあおっている
それが極端になると、いかなる状況であろうと、またどんな方法であっても動物の利用はまかりならぬ、狩猟もだめなら肉食もだめ、動物園での飼育も畑で働かせることも御法度という主張に行き着く
そこからは、私達が第一に果たすべき、同じ人間への義務がすっぽり抜け落ちている
一流の学者達により共著『大型類人猿プロジェクト』という本で、二人は類人猿と人間の「対等なコミュニティ」作りを提唱している この提案の論理的なほころびは、はなはだしい擬人化にある 共通点が多いからという理由で道徳性の対象とするのは、その動物をほかより上に位置づけていることにほかならない
人間に近い動物ほど多くの権利が与えられているのなら、人間にはすべての権利が集まることになる
もう一つの問題点は、権利には責任が伴うのが普通だが、類人猿にはそれが当てはまらないこと
これに対して彼らは知的障害者も責任を免れるのだから、類人猿もそれではいいではないかと反論する
カバリエリとシンガーの主張には、恩着せがましい態度を感じる
これでは類人猿は、まるで毛皮を着た知的障害者だ
もし不確かな証拠で類人猿を平等に扱うのであれば、ゴキブリとて看過できない存在になるはずだ
私自身は、その動物がもつ固有の美しさと尊厳を出発点に考えるべきだと考える
動物に権利があるという考えがいくら善意から出たものだとしても、その主張の仕方は人間と動物の両方を視野に入れる者にとって腹立たしい事が多い
人間の生活を中心に据えたものであることを忘れては、道徳性などたちまちばらばらにほどけてしまう
念を押すが、私達の生活は他の動物の生活と比較して判断することなどできない
特定の動物に関するあるやり方の研究を支持するかどうかは社会が決めることだ
すでに生物医学の分野では、サルを使ってもラットを使っても効果が変わらないと判断される実験では、サルを使わないようになっている
同様にチンパンジーとサルで効果が変わらない実験ならば、チンパンジーを実験には使わない
動物たちが不運なのは、危機にさらされているのが彼らだけではないということ
人間の生命もまた危険にさらされている
医療は動物実験のお世話になっている
私達はどこかで選択をしなければならず、モルモットとなる対象の生命形態が複雑になればなるほど、その選択は難しくなる
私達はどこまで気を配るべきで、一体何ができるのか
人間のために犠牲になる動物を尊重し、配慮すべきだという主張には立派な理由があるし、類人猿の実情もそのことを警告している
彼らを動物実験に使うことをやめるか、あるいはその恩恵がどうしても必要なのであれば、類人猿の飼育環境を豊かなものにして、なるべく苦痛を減らす努力をしなければならない
こういう問題に関しては、他の動物に対する「責任」という言葉を使っても道徳ピラミッドは揺るがないし、権利うんぬんで語るよりは穏やかな結論に到達できるだろう
モラルは脳に育つ
事故で鉄棒が脳を貫通したが、基本的な知的能力が損なわれることもなく、健康にその後の一生を送った
ただ一つだけ変わったのは彼の性格
陽気な性格から、嘘を述べ立て罵詈雑言を口にすることがやめられなかった
おそらく最大の変化は、責任感が消失してしまったことだろう
神経学者のハナ・ダマジオたちは最近になって、ハーバード大学に保存されているゲイジのずい骸骨と鉄棒をあらためて調べ、脳が受けた損傷をコンピュータで再現してみた その結果、ごく普通の男性が正確的に重大な欠陥を持つようになったのは、脳の正面部分の損傷が原因だということがわかった
やはり脳に損傷を受け、論理的能力や記憶力はまったくそのままなのに、社会生活が営めなくなった例が他にも十数例報告されているが、フィニアスゲイジもこのパターンに一致していた
良心は、文化や宗教を下敷きにしないと理解できない、肉体から遊離した概念のように思われるかもしれないが、実はそうではない
道徳性も人間の他の営みと同じように、神経生物学の領域にしっかり根ざしている
誠実さ、罪悪感、倫理的なジレンマの判断は純然たる精神世界の話と考えられていたが、今ではそれらが脳のどの部分で行われているかたどることができる
だから、動物においても同様であることが判明しても驚くにはあたらない
人間の脳は進化の産物
他の哺乳動物に比べて大きく、複雑になっているかもしれないが、基本となる神経システムはさほど変わっていない
道徳性の議論を、哲学者の手から奪い取る時期が来ているようだ
芽生えたばかりの学問領域だから多少の意見の食い違いはあるが、それを補ってあまりあるほどの信念が底流にある
道徳性に満足のいく説明を与えるには、進化の要素が不可欠だという信念